男女の違い | |
生物学的に、生命体の存在意義というのは、「子孫を残すこと」だとある学者は言う。 この言い分が完璧な答えであるとはいえない。 なぜなら望んでも子どもができない人がいるからである。 子どもができない人は「存在意義が無いのか」ということになってしまうではないか。 ただ、子孫を残すということは「種」を残すということであり、「種」が絶えてしまえば、結果的には「個」の存在意義を失ってしまうということになってしまう。 だから「個」ではなく「種」という単位で見れば、上記の論理は、真理ではないが一理はあるといえると思う。 男性が100人いても、女性が1人しかいなければ、年間に1人しか子孫は残せないが、男性が1人でも女性が100人いれば、年間に100人の子孫を残すことができる。 ここで言いたいことはあくまでも、男性と女性、どちらかの優劣をつけるための論ではないことが前提である。 そういった見方をすると、男性と女性は全く異なった考え方を持つというのもわかる。 男性と女性は全く異なる生き物だと言う人もいるが、この言い分を完全に否定することはなかなか困難である。 当然、異性の好みと言うのは、人それぞれ異なる。 だから、異性を評価する万人共通の基準というものは存在しない。 ただ、あえて異性にランクを付けるとする。 もちろんこのランクはある一人を基準としたもので、万人に共通した基準ではないことをあらかじめ断っておく。 その人にとってのランクの基準と言うのは、生物学的に言う「生命の存在意義とは子孫を残すことだ」という面からすれば、「どれほどすぐれた子孫を残すことができるか」で、その異性のランクが決まる。 何を以て「すぐれた子孫」かということは、ここで具体的に挙げる必要はないので、読者各自で判断してほしい。 さて、男性が1人でも女性が100人いれば、年間に100人の子孫を残すことができるということから言えば、100人の子孫の中からもっともすぐれた子孫を産んだ女性が最上位のランクとなる。 そういった意味から、男性が女性を評価するには、子孫が生まれ育ち一人立ちしたときにその子孫を評価する。 その点からすれば男性が女性をランク付けするには相当な時間をかける。 逆に女性は年間に1人しか子孫を残せないということから言えば、子供が生ま育って一人立ちしてから男性を評価するのでは時すでに遅しということになる。 だから100人の男性がいたとしたら、その中で最もすぐれた子孫を産むであろう人を1人選ばなければならず、しかもその女性にとってその男性はもっとも完璧な男性でなければならない。 女性が男性をランク付けするためにかける時間は男性と比較したらはるかに短い。 しかも短い時間に(その女性にとって)限りなく完璧な男性を見極めなければならないので、容姿・体臭・声色・肌触り・味などの五感では判別できない部分で判断しなければならない場合が多々ある。 だから女性は男性と比較してはるかに鋭い「勘」がある。 子孫を残すという生物学的な存在意義を前提としたとき、異性を選ぶと言うのは原因であり、子孫を残すというのは結果である。 このように見ると、男性は得てして結果を求め、女性は原因やプロセス(経緯)を追求するようである。 ここに「円柱」という異性があるとする。 円柱というのは真上から見れば「円」だが、真横から見れば「長方形」である。 男性は女性という「円柱」を、そのまま「円柱」として見る。 「円」だと思っていたものが、見る角度を変えて「長方形」でもあることを発見すると、ある意味で新鮮であり、その点はプラス評価をする。 女性は男性という「円柱」を、「円」と「長方形」という2つの見方をする。 「円」であるはずが「長方形」の要素も持っているとわかると、その「長方形」の角をどんどん削っていき、「円」に近づけようとする。 あらゆる角度から「円」に見えるように削っていくと「真球」になる。 「真球」というのはある意味「完全体」である。 男性は、どんどんプラスして、そのプラスでマイナス部分をおぎなっていくようである。 女性は、四角いものがあったとしたら、どんどん角を削って真球に近づけようとするようである。 こんなジョークを聞いた 男性が女性に求めることは「変わらないでいてほしい」 女性が男性に求めることは「変わってほしい」 まぁくどくどと回りくどい言い方をしてしまいましたが、要は男性と女性は何かと違うんだなぁと感じる今日この頃です。 |
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