性善説・性悪説 | |
性善説・性悪説とは… 「性善説」とは、人間は生まれたときは善人で、生きていく中で悪を知り、悪行を積んでいくという説。 「性悪説」とは、人間は生まれたときは悪人で、生きていく中で善を学び、善行を積んでいくという説。 ちなみに「性」とは、「うまれつき」という意味である。 性善説も性悪説も古代中国で誕生した思想で、人間の本質を探究する中で発展した哲学である。 現代社会、特に近年は犯罪が急増し、警察も頑張っている(頑張っていない警察もいるのは内緒…)が、まったくもって追いつかない状況である。 一昔前では考えられないような犯罪が、毎日当たり前のように起きている。 目を覆うばかりである。 さて、人が犯罪を犯す原因というのは色々考えられる。 その人が他者によって精神的・肉体的、あるいは直接的・間接的に命が脅かされそうになると、身を守ろうとする防御反応的に攻撃することがある。 これは「怒り」から発せられる行為である。 また、欲望が強すぎて犯す犯罪もある。 さらに、「酔った勢いで…」などと、目先の事にとらわれて後先も考えずに犯す犯罪もある。これは「愚か」である。 いずれにしても、犯罪は「悪」であることは否定できない。 では聞くが、「善」とは何をもって「善」というのか?「悪」とは何をもって「悪」というのか? この疑問に対する明確な答えを持たなければ、「悪人だ・善人だ」との判断ができない。 善悪の判断ができなければ、「善」も「悪」も個人的な感情に委ねざるを得なくなる。 となると、弁護士による弁護も、検察による起訴も、裁判官の判断も、すべては各々の感情によるものとなってしまう。 もちろん彼らはみんな片手に六法全書を携えている。 その六法全書の内容も、つまり立法機関である国会、突き詰めれば国会議員の個人的感情で法律が制定されている可能性がある。 では「善」とは何をもって「善」というのか?「悪」とは何をもって「悪」というのか? 例えば人食いサメは「悪」か? 作物を食い荒らすシカやイノシシやサルやクマやイモムシは「悪」か? 彼らは別にそれを「悪」だと思っているわけではない。 人間を苦しめてやろう、困らせてやろうと思っているわけではない。 生まれながらあるがままを生きているにすぎない。 つまり「性」である。 「うまれつき」という意味である「性」には、そもそも「善」も「悪」もない。 たとえばミツバチは、人間にとって有用物質である「蜂蜜」を生産してくれる。 ただ、ミツバチにとっては、何も「人間様のために我々は頑張っているのだ」と思って蜜を集めているわけではない。 ミツバチは「あっちの花」にも「こっちの花」にも飛び回る。 人間から見ればミツバチは「欲張り」かもしれない。 だがこのミツバチの行動は、花にとっては非常に有難いことである。 ミツバチのこの「欲張りな『性』」が花を育て、野原を育て、ひいては生態系を維持しているともいえる。 このように見ると、サメもイモムシもミツバチも、「性善説」「性悪説」というのは当てはまらないであろう。 毒蛇は怖い。 噛まれたら大変なことになるからである。 だが、毒蛇にとって人間は恐ろしい存在である。 カエルにとって蛇は天敵である。 だが満腹の蛇はカエルを襲わない。 蛇の「性」で、余計な殺生はしない。 人間も結局同じである。 必要なもの以上の物は不要である。 水は生きるためには必要不可欠である。 だが、必要以上の水はその人を苦しめる。 水の怖さを知らない赤子は、コップ1杯の水では溺れないが、水深10pでも溺れる。 体験したことのない水の量にパニックになるからである。 結局お金も同じである。 火というのは、人間の生活を豊かにする力がある。 だが扱いを誤れば、すべてを燃やし尽くす。 人間の感情もまた同じである。 目的を持ち、その目的は自分だけの満足ではなく、他をも利益をもたらすものであるべきである。 そしてその目的を達成したときに、虚しくなってはいけない。 私は小学生のときから高校までずっと野球人生を送っていた。 高校では甲子園を目指していた(とうてい甲子園なんか夢のまた夢の弱小野球部だったが…)。 高校3年の甲子園出場を目指す地方大会で、甲子園でも何度も優勝している超強豪校と当った。 試合結果は散々であったが、とてもいい経験だった。 この試合で私の野球人生が終わるという節目で、納得のいく内容で悔いの無い試合ができたのはとても良かった。 翌日はクラスのみんなから「試合はとても面白かったよ!頑張ったね!よくやったね!」と労ってくれた。 今まで頑張ってきて良かったなぁと思った。 今までは、授業が終わったら真っ先に部室に行ってユニフォームに着替え、真っ暗になるまで汗と泥でユニフォームを汚していた。 それが毎日の日課であり、当たり前であった。 ところが最後の試合が終わり、野球人生にピリオドを打った後、しばらくの間は一体何をすればいいのか全くわからなかった。 やがて大学を目指そうととりあえず勉強した。 当時はまだ若かったから将来の目的を探し求めてそれに打ち込むことができた。 ただもしその時、人生の終点までの時間が残されていなかったらどうだっただろうか? そう考えると恐ろしい気もする。 今あなたが抱いているその目的は、他を傷つけるようなものではないだろうか? 独りよがりではなかろうか? 他を蹴落とすようなものではないだろうか? もしそうであれば達成した後に虚しさが残るようなものになるであろう。 自分のみならず他をも利益をもたらすものであるだろうか? もしそうであればその目的を達成した後に「生きてて本当に良かった」と思える人生になるであろう。 「生きてて本当に良かった」と思える人生を送ることが「あるがまま」である。 「あるがまま」に生きることに「善」も「悪」もない。 そこには「性善説」も「性悪説」も当てはまらない。 |
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