十七条憲法

推古12年4月3日(604年5月6日)、聖徳太子によって制定。
この十七条憲法作成の最大の目的は「全国民が永久に安泰で平和に幸福に暮らすことができ、絶対に亡びることのない揺るぎない盤石な国家の建設」である。この目的の他にあろうか。
あらゆる文献・書籍あるいはサイトを見ても、文章の表面でしか見ていない解釈しかない。
この「十七条憲法」の本質を見抜いたものを私は知らない。

そもそも聖徳太子はどのような人物なのかがあまり知られていない。
推古天皇の摂政(天皇の補佐)で、冠位十二階(603)を制定し、十七条憲法(604)を顕わし、小野妹子を隋に派遣した(遣隋使)などが一般的に知られていよう。

釈尊の最も優れた弟子の中に観音菩薩・薬王菩薩がましました。
観音菩薩の再誕が中国の南岳大師であり、薬王菩薩の再誕が天台大師である。
そして南岳大師の後身が聖徳太子となり、天台大師の後身が伝教大師(最澄)である。
つまり聖徳太子は釈迦仏法を窮めた人物である。
この観点からこの十七条憲法を読まないと本質は見抜けないのである。

聖徳太子の偉業の一つとして隋の煬帝に送った国書がある。
【日出処天子至書日没処天子無恙云々】(日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや…)「太陽の昇る所の天子から太陽の沈む国の天子へ書を送る。御機嫌いかがかな…」という内容である。

送った相手は、全世界の中心である中華のその皇帝である。
皇帝から見れば他国の王などは村長に過ぎない。
そこから上記の如くなる書が送られてくれば激怒するのも当然である。
聖徳太子の本質を知らない者が言うには「これは日本が中国の冊封体制から抜け出すための一か八かの賭けであった。もし万が一失敗すれば大帝国中国からの侵略を受けていたかもしれない。煬帝が怒りを鎮めてとどまったのは奇跡であった」等と、歴史の本質にも触れず、史書の表面を少しかじっただけで答えを出そうとする者もいる。
しかしそうではない。
聖徳太子はすべてを見通していたのである。
聖徳太子の過去世の姿である南岳大師のときの弟子が天台大師である。
その天台大師に煬帝が帰依していたのである。
つまり聖徳太子にとって煬帝は弟子の弟子だったのである。
当然煬帝も日本から上記の如くなる国書が届くことを師匠である天台大師から教えられていたのである。
煬帝が怒りを鎮めたのは師匠の教えをはっと思い出したからであった。
このとき煬帝はこの書に低頭合掌したに違いない。
煬帝が日本を攻めることなど当然できはしない。
このことを聖徳太子はすべて知っていたのである。

聖徳太子の本質を知らない者の十七条憲法の解釈は読むに値しない。
しかし聖徳太子の本質を知る者の十七条憲法の解釈は一つもない。

そこでひとつ十七条憲法を解釈しなくてはならないと感じるものである。
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