白人の奴隷にされた黒人達
白人によるアフリカ大陸にいる黒人奴隷狩りと奴隷貿易などは人間のするような事ではない。

白人ヨーロッパの奴らは16世紀から19世紀までの400年間にわたって奴隷狩りと奴隷貿易を、国家的事業として組織的に何の罪悪感もなしに繰り広げた。

奴隷貿易は、16世紀にスペインによって始められ、西ヨーロッパの安物の綿製品、腕輪などの金属製品やジンなどの酒類、鉄砲そして現地では通貨だった子安貝などを積んだ船がアフリカ西海岸で奴隷と交換する。

代わりに黒人奴隷を積んだ船は西インド諸島やアメリカ大陸へ渡り、そこで、積んできた奴隷との交易によって砂糖や綿花やタバコを手に入れ、それらの商品を積んで、西ヨーロッパの母港にもどるという形をとったため「三角貿易」と呼ばれた。

17世紀にはスペインポルトガルに代わって、イギリスとフランスが西インド諸島に植民地を築き、18世紀からは、産業革命をいち早く迎えたイギリスが、海上覇権をオランダから奪い、イギリスの主導のもとで大西洋間の奴隷貿易は頂点を迎えた。

アフリカ大陸から奴隷を狩り集めたイギリス、フランス、オランダの奴隷商人の奴らは、300年間に1500万人に上ると推計される黒人奴隷をアメリカ市場に売って金儲けをした。

この奴隷貿易はごく最近の19世紀まで続いた。

イギリスで奴隷貿易禁止令が出たのが1808年、イギリスでの奴隷制度の廃止は1830年代アメリカでは1863年、ブラジルでは1888年であった。

奴隷貿易には、ヨーロッパのほとんどが手を染めていた。
そして、ほとんどが熱心なキリスト教徒であった。

アフリカの歴史に恥辱と屈従と衰退の烙印を焼きつけ、19世紀に始まるヨーロッパ帝国主義のむきだしのアフリカ侵略、数世紀にわたる黒人奴隷貿易に、他のヨーロッパ諸国がいつまでも黙って見ているわけがなかった。

まもなくオランダ、フランスさらにイギリスが、そしてついにアメリカまでがこの「人肉市場」に首を突っ込み、魔獣同士分け前を主張し始めた。

16世紀〜19世紀初頭までの大西洋奴隷貿易の期間中にどれくらいの数のアフリカ人が奴隷として船で連行されたかについては、資料などから推計すると少なくとも1000万人から2000万人程度と見積もっており、多い推計では、18世紀末までに約5000万人近くの10代から30代前半までのアフリカ人がアメリカに連行されたのだ。

16世紀90万人、17世紀275万人、18世紀700万人、19世紀400万人と概算されている。

しかし、これはアメリカ大陸にたどり着いた奴隷の数であり、アフリカからの海上輸送の途中で死亡した数はその数倍にのぼるといわれる。

航海は今とは違い3ヶ月近くかかり、フランスの奴隷貿易港にある奴隷貿易会社の18世紀の記録では航海中の奴隷の死亡率は8〜32%と推定されている。

しかし、船中で疫病が発生した例では、アフリカで積み込んだ189人の奴隷のうち、アメリカで荷揚げされた奴隷がわずか29人という記録もある。

奴隷貯蔵庫なるものがアフリカ西海岸の各所に存在した。
それはさながら家畜を輸出するために港に造られた一時保管場所であり、最も悲惨な煉獄である。

奴隷には初めから人権などなく、家畜なみに烙印をおして売買しても、なんら良心の呵責や罪悪感を覚える白人はいなかった。

輸送の途中に奴隷が死んだら、また別な奴隷を調達すればすむのである。

これほど膨大な数の奴隷を商った奴隷商人たちは、誰一人として良心の呵責を覚えなかったのだろうか?

当時のヨーロッパ社会には、奴隷貿易を人類の罪と見なす神は存在しなかった。

啓蒙主義者モンテスキューは、『法の精神』で、「黒人は人間ではない。彼らを人間であると考えれば、我々がキリスト教徒でないことを認めざるをえなくなる」などと暴論を展開している。

1776年に公布されたアメリカ独立宣言には、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信じる」とほざかれているが、ここで言う「すべての人間」には、黒人やインディアンは含まれていない。

これが、事実だ。

リンカーンによる奴隷解放宣言の6年前の1857年、アメリカの最高裁判所は、ドレッドスコットという黒人奴隷の自由を求める裁判の判決において、次のように宣告した。
「黒人奴隷ならびにその子孫は所有者の財産であって合衆国の市民ではない。劣等人種である彼らは白人と同等の権利をもつことはできない」と。

白人たちは、奴隷を「従順」で「子どもっぽく」、自分の愚かさを自覚しており、自分より優れた主人たちに忠実であり、保護されていることで幸せを感じていると信じたがった。

そのような従順な黒人奴隷を「サンボ」という。
白人たちは、奴隷の大多数は「サンボ」で、反乱を起こしたり逃亡したりする反抗的な奴隷は少数だというわけである。

アメリカ南部の白人たちは、初期のころは黒人奴隷たちが子供を増やすことを奨励した。
労働力が不足していたため、奴隷人口を増やすことが奴隷所有者の利益になったからである。

農園主が女奴隷に手を付けて奴隷を増やすことも行われた。

“アメリカ独立宣言”の起草者ジェファーソンは、大奴隷主であり、奴隷増殖のために自ら奴隷との間に子供をつくり、その子供たちを自分の奴隷にしていった。

現在のアメリカにいる黒人でアフリカの血だけを引いている黒人はほとんどいない。

ご主人様である白人はまるで血統書付きの犬でも作るかのごとく、有能な黒人同士を引き合わせ子供を生ませて行った。
そこには恋愛もなにもない。
有能な黒人同士引き合わせ生まれてきた子供達がオリンピックの金メダリスト達でありモハメドアリでありマイクタイソンでありマイケルジャクソンでありその他活躍している有名人であるのだ。

彼らが歌うブルースやラップやヒップホップなどは全て黒人の悲しさ白人への抵抗と反抗のメッセージなのだ。

黒人奴隷はその後アメリカ国内で巡回商人によって一繋ぎの鎖の列で町々を歩かされ、競売に付された。

しかし、のちに奴隷人口が増え過ぎて南部の農場主にとって奴隷所有を続けることは経済的にきびしい状況になっていった。

リンカーンは、1863年奴隷解放を宣言し、南北戦争(1861年−1865年)終結後の1865年にアメリカの奴隷は解放された。

しかし、アメリカの黒人は多くの点で差別されたままその後100年以上を経過したのである。

そして現在もブッシュはハリケーンの被害に苦しむニューオリンズの黒人の人々を平気で見殺しにしているのだ。
理由は言うまでもない。

マルコムXは次のように語った。
「われわれ黒人は皆いわゆるニグロであり、第二級市民であり、元奴隷なのである。元奴隷以外の何ものでもない。こんなふうにいわれるのは気に入らないと思ったが、それ以外のなにものだというのか?あなた方は元奴隷である。皆は豪華な客船でこの国にやってきたのではない。奴隷船できたのだ。鎖につながれ、牛や豚や馬同然の姿で。しかも皆は豪華な客船でやってきた連中に連れてこられた。いわゆる清教徒や開拓使徒に拉致されてきたのだ。こういった連中が、私たちをこの国に運んできたのである」

日本が白人アメリカに真珠湾攻撃をした時、奴隷の黒人達はどう思ったと思うか?
勇気が芽生えたのだ。
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