インカ帝国滅亡
わずかの手兵でアステカ帝国を滅亡させ、莫大な黄金を得たコルテスのニュースは、カリブ海を探検中のピサロにも届いた。

スペイン人であるフランシスコ・ピサロという人物は、残虐さと無法ぶりで知られるが、軍事的才能にすぐれていたといわれている。
しかし、その軍事的才能によって侵略を成功させて相手国を亡ぼし、自らを亡ぼしている。

そんなものは「才能」とは言わない。
「フランシスコ・ピサロは軍事的才能にすぐれていた」と讃嘆すること自体が、白人至上主義的な、侵略をあたかも正当化するようなものである。
絶対に許される行為ではない。

1531年、アンデス山中にたくさんの黄金を持つインカ帝国があることを聞きつけたピサロは、180人の手兵と数十頭の馬を連れてインカ帝国に向かった。
エクアドルからボリビアまで広がるインカ帝国は、建国してまだ100年足らずだったが、道路、貯蔵庫、農業台地、鉱山都市と驚くべき偉業が遂げられていた。

ピサロはインカ帝国の王を家臣と共に広場へおびき出した。
ピサロの従軍司祭のビセンテ・デ・バルベルデ神父は通訳を通して、カルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)への絶対服従と、キリスト教への改宗を要求する投降勧告状を読み上げた。

言語障壁と拙い通訳のため、アタワルパは神父によるキリスト教の教義が理解できなかった。

アタワルパ王は、キリスト教信仰の教義について更に質問を試みたが、「なぜそんなことも理解できないのだ」とスペイン人たちは苛立ち、王はキリスト教を拒否したと理解した司祭は、ピサロに皇帝の随行者を攻撃し、皇帝アタワルパを人質として捕らるように促した。

司祭はまた、ピサロとその兵たちに、これからの流血の事態に対するいかなる責めからも、神の名において免ぜられると告げた。

今の世の中で、戦争がなくならない理由がここに見え隠れしてくる。

ピサロの合図で歩兵に支援された騎乗兵が隠れ場所から現れ、非武装のインディオたちに襲いかかり、多数の貴族を含む数千人をあっという間に殺害してしまった。
王は人質にされ、ピサロは帝国の支配権を握った。

キリスト教は白人以外を人間と認めていない。
キリスト教徒にとって異教徒は滅亡して当然との振る舞いである。

インディオたちの相手を疑わない寛容な善意の対応を裏切っただまし討ちだった。
このような白人の残虐非道な手は、5世紀後の大東亜戦争まで一貫して使われる常套手段である。

捕らえられたインカ帝国の皇帝アタワルパは、白人が欲しがっているのが黄金であるのを知っていたので、釈放してくれるならば部屋一杯の黄金を差し出すと申し出た。
その大量の黄金が出された途端に、ピサロは約束を破ってアタワルパ王を裁判にかけ、ロープで絞め殺した。
アタワルパ王がいる限り、反乱が起こるのを恐れたためと言われている。

インカ帝国の黄金は、彼により略奪され、金の延べ棒にされた。
その重さ8トン。
しかし、財宝を手にしたのも束の間、彼は暗殺者により刺し殺された。
皇帝アタワルパを処刑した8年後のことだった。

白人社会では、金銀財宝を奪うだけでなく何の罪もない人々を虐殺し、その彼らが住む国をも亡ぼした人物が英雄扱いされ、その悪辣な手法を「すぐれた才能」と言う。

ピサロはアタワルパ王の腹違いの弟にインカの王位を継がせた。
その最後のインカ王トゥパク・アマルも結局は捕らえられ、中央広場で斬首された。

処刑の時、トゥパク・アマルが処刑台に登り、刑執行人が刀を取り出したとき、先住民の全群衆が悲しみの叫び声を挙げて涙を流した。
この様子に、トゥパク・アマルは右手をさっと挙げて人びとを静まらせた。
その毅然とした態度に、群衆は一瞬で静まりかえった。
それを見ると、トゥパク・アマルは死を目前にしたものとは思えない立派な態度で群衆に対してケチュア語で話し始めたと伝えられている。

命乞いをして助かったとしてもすぐに裏切るような白人とは比べ物にならない立派な態度である。

1996年末に起きた、ペルーの日本大使館公邸人質事件で、ゲリラ集団が名乗ったのもトゥパク・アマルであった。

インカ帝国から得た富を主因としたスペイン黄金時代、文学や宮廷美術の全盛期は1550年から1680年までの長きに及ぶと考えられる。
歴史TOP
しんぐうネットTOP