聖徳太子
ある日、テレビを見ていると、最近は学校で「聖徳太子は聖徳太子ではなく『厩戸王子(うまやどのおうじ)』と呼ぶべきである」と教えているらしい。
それは、『聖徳太子』という呼び名は後世になってから尊敬を込めて付けられた呼び名である。というのが根拠である。
確かに、聖徳太子の在世に太子に対して「聖徳太子殿」と呼ぶことは考えにくいと思われる。

ただ、この「聖徳太子」の功績をみれば、まさに「『聖徳』太子」と呼ぶべきである。
現代の歴史の授業というのは、ただ「○○年に△△があった」というのを暗記的に教えることしかない。
本来であれば、「なぜそのような出来事があったのか。その背景には何があったのか。そしてその出来事が後世にどのような影響があったのか。そのようなことを踏まえたとき、いま起きていることが将来にどのように影響を与えていくのか」ということを教えていかなければならないはずである。

暴論によれば、何を考えているのか、聖徳太子の存在すら否定する学者がいる。

聖徳太子というのは、「日本」を確立させた人物である。

聖徳太子の功績には、「十七条憲法」や「冠位十二階」を制定し、日本を一つにまとめ上げた。

ただこれだけでは世界的に認められるものではない。
自己主張しているだけでは、辺境の地の村長が「村は独立して国家となった」と言っているのと何の変わりもない。
これを世界に認めさせたものこそ、隋の煬帝に送った「日出處天子致書日沒處天子無恙」の一文、すなわち「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」、直訳すると「太陽が昇る所の天子が太陽の沈む所の天子に手紙を送る。ご機嫌いかがかな」という内容である。
捉え方によっては、「これから発展していく国の王が、これから没落していく国の王に手紙を送ろう」とも読める。
中華思想というのは、「世界の中心は中国であり、その他諸々の国々はすべて地方の村々に過ぎない」という考え方である。
この中華思想によると、中国の皇帝こそ全人類の頂点に立つ存在であり、諸々の国々の王々は地方の村長に過ぎないということである。
いってみれば中国の皇帝と地方の王では天地ほどの差がある。

かつて中国と朝鮮の関係は、朝鮮の王よりも中国からの使者のほうが位が高かったという。

この中国から見て野蛮で何の文明のない辺境の地の王から届いた、この上ない無礼な手紙を読み、隋の皇帝・煬帝は烈火のごとく怒りを表わしたという。
すぐさま挙兵して日本を攻め落とすこともできたであろう。
しかし煬帝はそれをしなかった。

なぜか?これには深い訳があった。

煬帝の生年は569年、没年618年。在位は604年〜618年とされている。
実はこの煬帝、天台大師に帰依していたのである。
さらにこの天台大師の師匠は南岳大師である。
この南岳大師の生まれ変わりこそ、聖徳太子であった。

失明してまで日本に渡ってきた中国の高層・鑑真は、この聖徳太子を追ってきたのであった。

まさに煬帝にとっては師匠の師匠であったのである。
さらに煬帝は師匠である天台大師からすでに「東方より我が師の再誕が手紙をよこすであろう」ということを聞いていた。
これを思い出した煬帝は、聖徳太子の手紙を読んで起こした烈火のごとき怒りを鎮め、そして日本を正式に「国家」と認め、対等な国交が結ばれた。
この後、遣隋使等の行き来が始まった。

「日」とは太陽であり、太陽は全世界を照らす。
これから日本はまさに「日の本」となり、その光は全世界を照らすようになるのである。
これは歴史の必然である。

もし聖徳太子を数多の歴史上の人物の一人と捉え、その威徳を落とすようなことがあれば、日本の将来を盲目にさせることになる。
聖徳太子が世界に日本を正式な国家と認めさせたことが日本を日本とならしめており、そしてこの一事が中国共産党にとってもっとも闇に葬り去りたい歴史の事実である。

聖徳太子の威徳を貶める日本の教育、そして聖徳太子の存在すら否定する学者。
何かしら隠された意図があるように思えてならない。
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