トルデシリャス条約(1494年)
新航路発見を機に、スペインとポルトガルは争って侵略に乗り出し、両国が発見した土地、島の帰属を巡って紛争が続出した。

両国ともローマ教皇下にあったので、1494年、教皇が教書を出して、両者の進出領域を決定した。
これがトルデシリャス条約である。

アフリカの西岸ベルデ岬諸島の西方の西経45度の子午線を基準に、西方をスペイン、東方をポルトガルの進出範囲となった。

史上初の大胆な幾何学的領土分割線は、ブラジルから北上して、グリーンランドを超え、地球の裏側では日本の北海道の東辺りを超えて延びている。

しかし、当時の地図はまだ不正確で、条約は地球の裏側については何も言及していない。

ただ、両国は「インド」を目指して航海を競い合っていたのであるから、ポルトガル領インドすなわち「東インド」、スペイン領インドすなわち「西インド」という呼称が自然に生じた。

ポルトガル、スペイン両国はトルデシリャス条約を結んだ後に東回りと西回りの地球争奪競争を始める。

地球の裏側にも線が必要となるのは明白で、1529年には、サラゴサ協定によってアジアでの分界線を東経135度に定めた。
この線は日本を真っ二つに分断する。

そして1543年にはポルトガル人が種子島に、1549年にはスペイン人、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸する。
まさに日本は二つの侵略国の先端が衝突する地点にあった。

この広大な地球をヨーロッパの二つの国だけで山分けするとは、何とも勝手な行為である。
誰がこんな勝手なことを決めたのか。
それはローマ法王である。

その後、スペインとポルトガルは領土問題で争うが、早くも16世紀末には、両国とも繁栄にかげりが見え始めることになる。

そうしているうちにヨーロッパ本国が火の海になってスペインもポルトガルも没落してしまう。

次にオランダが登場するが、オランダはそれほど力がなかった。

その後、イギリスとフランスが登場して局面が変わる。
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