朝鮮、国交樹立拒否
日本と朝鮮の関係は豊臣秀吉の朝鮮出兵後に断絶したが、慶長12年(1607)に徳川家康が国交を回復し、以降、幕府の将軍の代替わり時などに朝鮮が日本に通信使を送ってくるようになっていた。

明治元年(1868)、明治維新後の政府は諸外国に日本の新政府樹立を通告した。

朝鮮には、朝鮮との窓口だった対馬の宗氏を通して、朝鮮と修好したいと伝えたが、朝鮮はそれを拒否した。

その理由としていくつかあげたが、ひとつには朝鮮に提出した国書の中に清の皇帝と対等であることを示す「皇」「勅」「朝廷」という文字があったというのである。

これらの文字は支那の王朝だけが使うもので、支那の属国である朝鮮にとってはそういう文字を日本ごときが使うのは許せないとうことだった。

また、書式や判が江戸時代のものと違うということも理由とした。

政権が代われば書式や判が変わるのはおかしくないのだが、それが問題だという。

翌年に入って明治政府はふたたび宗氏を通じて朝鮮に手紙を送り、説明を試みるが朝鮮の態度は変わらない。

それどころか、「皇」「勅」を使うのは、日本が朝鮮を隷属させる野望をもっているのだなどと、おかしな文句をつける始末である。

その数年前、朝鮮はロシア、ドイツ、アメリカ、フランスなどの船を追い返したり、船員を殺したりしていた。

そういったことが自信となり、当時朝鮮で実権を握っていたのは大院君で、白人に勝った朝鮮が日本なんかの要求など聞けるかという思いがあったらしい。
武力に対する認識が江戸幕府のように正確でなかった。

拒否されても日本は朝鮮が開国・近代化して独立国になることを切望した。
というのも北方からロシアの侵略が南下してきており、朝鮮半島がロシアの植民地になれば、日本の安全は脅かされるからだ。

日本としてどうしても朝鮮に華夷秩序、清国の属国から抜け出し、自主独立の国になってもらいたかった。

しかし、朝鮮は相変わらず拒絶し続けた。

やがて、朝鮮では理由もなく反日運動が高まり、日本を侮辱し始めたので、日本側はとうとう怒った。

当時の日本政府の要人の多くは岩倉使節団として外国にいた。

国内にいた一番の重要人物は西郷隆盛で、彼は朝鮮への軍の派遣に反対した。

しかし、自分が朝鮮に行き、もし殺されたら、そのときは軍を出してくれ、と主張した(これが「征韓論」といわれる)。
しかし、この西郷の要望は受け入れられず、西郷は下野した。

事態が動いたのは「江華島事件」だった。
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