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新宮は都市といえるか?
ところがどうだろうか?

新宮は都会の真似をするだけで独自文化を築こうとしていないように思われる。

決して、真似をすることが悪いといっているわけではない。

あらゆる発展の「基礎」となる行為が「真似」である。
言葉を覚えていくのも、もとはといえば親が喋っていることを「真似」することであり、学問を身に付けるのも教師の「真似」である。

スポーツが上達していくのも監督やコーチ、あるいは先輩等の「真似」から始まっている。

しかし大事なことは、「真似」だけではそれ以上のものにはならないということである。

そもそも大都市の猿真似をして、どこにでもある町を作って、何の魅力があるのだろうか?

飛騨高山の白川郷が観光スポットとして世界中から注目されているようである。
そこにはこれといってテーマパークがあるわけでもなく、ハワイやグアムのような常夏でもなく、ヨーロッパのような世界的歴史建造物があるわけでもない。

語弊があるかもしれないが、ごくごく普通の「日本の田舎」でしかない。
それなのに何故、注目されるのか?

私が思うに、「あるがまま」だからである。

見栄を張っているわけでもなく、飾っているわけでもなく、また「ここは田舎だから」と卑下するわけでもない。
住民がその土地のことを本当に好きなのだろう。
そして誇りを持っているのだろう。

地元の人々が地元のことを好きでなくて、どうして人を呼ぶことができるだろうか。

よそ者の私から見て、新宮には山もあり川もあり、海もある。
新宮独自の文化を築くには絶好の環境が整っている。

にもかかわらず、海は埋め立てられ、港を作り、川は水力発電施設からの大量の泥水と生活排水で汚れ、農地は放置され手付かずとなっている。

【悠久に流れる熊野川】(新宮市の商工観光課が乗せている熊野川の画像)

私が新宮に来て間もない頃、いろんなところを探索してみようと思い、熊野川の川辺に行ったことがあった。
何か獲れないかと思って、糸にスルメを巻き付けた罠を仕掛けたら、そこそこ大きなテナガエビを捕獲することができた。
喜んで知人に知らせたところ、思いがけないことを言われた。
「汚ったないから早く捨ててこい!」と。

せっかく獲れたテナガエビを捨ててこいと言われてショックだったこと、今でもよく覚えている。
ただ、いま思えば、獲れた獲物をすぐに捨ててこいというような、ただただ汚いドブ川を、【悠久に流れる熊野川】などと新宮市民が誇りに思っていること、どんなお笑い芸人の漫才よりも面白いネタである。

この絶好の環境を自ら壊している。

どうやら新宮市民はカネになることしか興味がないようである。
しかもそれでいてケチであるように「よその者」の私は見て取れる。

もっと突っ込んで言わせてもらえれば、新宮市民は新宮に誇りを持っていない。
新宮市民の目には金色は映っても緑色と水色と茶色は映らないようである。
新宮市民は本当に新宮のことが好きなのだろうか?
それでいて「新宮は観光都市だ」などとは片腹痛い。
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