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蒙古侵略
その蒙古が二度、日本に襲来して来た。
蒙古軍は、侵略のための兵士とともに、農機具と家畜まで持って来ていた。
移住するつもりだったのである。
大風吹いて敵舟が沈んだことで日本の亡国は逃れたが、もし敵舟が沈んでいなければ、今頃「日本人」は存在していない。
現在のチベットや新疆ウイグルと同じになっていたであろう。

文永11年(1274年)の文永の役では約3万人、弘安4年(1281年)の弘安の役では約14万人が襲来してきたのであった。
その圧倒的戦闘力とその悲惨さはどのようなものであったか。
まず蒙古軍は壱岐・対馬に上陸した。
その上陸したその日に島民が壊滅したという。
そして生き残った者は、手に穴を空けられて舟壁にぶら下げ、舟に向けて矢を放てないようにした。
女性は手に穴を空けて縄を通し、そのまま本国に持ち去られた。
女性だろうが子供だろうが、まったく何の容赦もなかった。
当時の公家(天皇に使える役人)は日記にこのように書き残している。
「恐怖以外に何も無い」(趣意)と。
蒙古軍の恐ろしさ・残虐性を物語る話がある。
大陸にあったある国を侵攻したとき、その国の国王を捕らえて、大衆の見ている目の前で、煮えたぎった鉛を口から流し込んで殺害したという。
それを見ていた大衆は、蒙古軍のあまりの恐ろしさに逆らうことができなかったという。
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